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彼の初期作品

ユルゲン・クロップが監督になったとき(11フロインデの記事より翻訳)

21. November 2014

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タッチライン際の一人の選手にやらせてみても、これ以上悪くはならないだろう。2001年にマインツのマネージャーであるクリスティアン・ハイデルはそう考え、ディフェンダーだったユルゲン・クロップを監督として据えた。良い選択だった。

 

Text: Andreas Bock   Bild: imago

 

マインツのマネージャーであるクリスティアン・ハイデルは、普段だったら、 カーニバルを楽しむところだったのである。ところが、今回、2001年の2月27日は、とてもじゃないが、そんな気分にはなれなかった。FSVマインツ 05はグロイター・フュルトに1-3で負けて、降格圏にくすぶっていたからだ。

ハイ デルが良い気分でいられなかった理由はそれだけではない。このシーズンは始まってからずっと頭痛に苛ませれっぱなしだった。彼が思っていたように動いたこ とは、なにひとつなかった。シーズンが始まる夏には、監督であるレネ・ファンデライッケンと素晴らしい契約を結んだと思っていた。このベルギー人は、かつ て代表選手であったし、RSCアンデルレヒト、FCジェノアの選手として活躍していた。彼はスタンダール・リエージュの監督でもあったことがある。 2000-2001年シーズンは、マインツと、ブンデスリーガ2部の、灰色のネズミ(のように全く目立たないクラブ)と契約することを彼は決めた。ところ が、12試合で3勝という結果は、”ブルッフヴェーク(マインツの練習場がある通りの名前)の紳士”にとって、関係を再び白紙に戻すには十分なものとなっ た。彼の後を引き継いだエッカート・クラウツンはチームの雰囲気を変え、トレーニングを上手く回したが、チームが望んでいた成功に導くことはできなかっ た。

冒頭に述べたフュルトとの対戦での敗北は、7試合連続で勝ち星がないことを意味していた - 相変わらず降格圏にとどまっている。ブンデスリーガ2部が終了するまで11試合が残っている。

 

このクラブからひとりを

 

さて、人々がマインツの市街でカーニバルを祝ってどんちゃん騒ぎをやらかしている間、ハイデルは自宅のソファに横になって考え事をしていた。「いくつか、はっきりさせないといけなかったんだ」と彼は後になってキッカーに答えた。「何かを変えないといけなかったんだよ。」

最 終的に、彼は決定に至った。それは、チームを降格の危機から救い、ドイツのサッカー史上で、最も成功することになる監督のキャリアの出発点となるものだっ た。「自分のクラブから一人を選ぼうと思ったんだ。そのひとりと組んでも、大失敗に終わった今シーズンの移籍市場よりも悪くなることはないだろうな、と 思ったんだよ」とハイデルは言った。ソファの上での数時間の間、彼はユルゲン・クロップのことを考えていた。

あ のユルゲン・クロップ、アビトゥア(大学入学資格)取得、スポーツ科学を大学で先行し、卒業論文は「ウォーキング-全ての人のためのスポーツ種目の諸要素 と評価の研究」というものだった。そのクロップは高貴で、地に足をつけたサッカー従事者だった。彼はどっちにしろ、いずれは監督をやりたいと思っていた。 クロップが現役として最後の試合を終えた後、すぐさま監督として就任することを、約束していたのには違いないが、それまでには、更に1年待たなければなら なかった。

 

クロップ、誠実なマインツの労働者

 

2001 年のカーニバルの時期、クロップはまだ、もう1年選手としてやる気でいた。その時点で、かれは325試合に出場していた。これは、これまでのマインツの選 手にはありえなかった数字だ。彼は、ファンに愛されていて、順位に不必要な見栄を持たず、昔はフォワードとしてプレーし、191センチの長身でセンター バックとして、相手のクロスをペナルティエリアからヘディングで弾き返し、ドリブルが得意な選手にはスライディングをかました。クロップは、テクニックに 目立って優れていたわけではないが、監督がピッチ上に送れば、常に全力を尽くす男だ。

(続き)